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The Documentary/炎立つスラッシュ・メタルの1986年【メタルハマー・ジャパンVol.3より】

炎立つスラッシュ・メタルの1986年
METALLICA THE COMPLETE STORY

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 過激さを追求する現代メタルの源流となる音楽こそ、1980年代に発起したスラッシュ・メタルだ。本稿は、そんなスラッシュ・メタルの輝ける時間=1986年を正鵠にしたドキュメンタリーである。
 ここでは物語の中心的存在=メタリカのメンバーを筆頭に、デイヴ・ムステイン、トム・アラヤ、ゲイリー・ホルトといったシーンの主要ミュージシャンから、レーベル関係者、ジャーナリスト、そして生前のジェフ・ハンネマンの声も収録。非常に貴重なスラッシュ・メタル創生~隆盛をひも解く回顧録となっている。

Text by Joh Hotten Interpretation by Mirai Kawashima

 

 1986 年になる頃には、スラッシュ・メタルはサンフランシスコにある安酒場には収まりきらなくなっていた。そして、メタリカ、メガデス、スレイヤー、アンスラックスは、音楽のあり方を変えてしまうアルバムを発表しようとしていた。これは、その場に居合わせた者たちが語る1986年の物語だ。


 ときは1986年になろうとしている。世界で最も売れていたレコードは、ブルース・スプリングスティーンの力溢れる『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』だった。アメリカのチャート上位は、夏に行なわれた[ライヴ・エイド]に出演したバンドで占められていた。MTVは放送開始4 年目を迎えていたが、『ヘッドバンガーズ・ボール』の第一回スペシャル・ショウが始まるまでには、まだ15ヵ月が必要だ。


 放映されるロック・バンドは、ラット、オジー・オズボーン、デフ・レパード、そしてジューダス・プリースト。ロサンゼルスで一番ビッグなバンドは、髪の毛を立てアイライナーを引き、オジーやスコーピオンズのようなアリーナ・バンドを輩出することになる新たなグラム・ロック・ムーブメントの一番手、モトリー・クルーだった。


 しかし、水面下では動きがあった。3 年前からサンフランシスコ~ベイエリアにいるひと握りのはみ出し者の間で、そしてニューヨークやロサンゼルスの小さな孤立地帯で、ヘヴィメタルとパンク・ロックから産み落とされた悪ガキ=スラッシュ・メタルだ。キー的存在であるサンフランシスコのメタリカ、L A のスレイヤーとメガデス、ニューヨークのアンスラックスらがリリースしたアルバムは、いずれも仲間内から絶賛されていた。


 シーンは、カリフォルニアの[メタル・ブレイド]や[メガフォース]、イギリスの[ミュージック・フォー・ネイションズ]といったひと握りのインディペンデント・レーベルの周辺が拠点だ。3年間、彼らはメイン・ストリームの音楽業界と交わることなく、自らを支えてきたのだった。


 しかし、すべてが変わり始めていた。1985年、メタリカ――まごうことなきシーンのヘヴィ級チャンピオン――が、メジャー・レーベルである[エレクトラ]と契約。仲間たちは彼らの成功を、称賛と羨望の眼差しで見ていた。1985年が終わるころには水門が決壊。スラッシュ・メタルは真正面からメイン・ストリームに、その大きな足を踏み入れていた。

 

ブライアン・スレイゲル([メタル・ブレイド]創業者):スラッシュ・シーンはスゲェ小さかったよ。アメリカでは間違いなく、すべてのバンド同士が知り合いだったはずさ。当時はみんな、ただ音楽が大好きなだけで、世界中が敵……みたいな反骨心の塊だったよ。

ラーズ・ウルリッヒ(メタリカ):デモ・テープを5本配れば、1週間後には100人のキッズがコピーを持っていた。山火事みたいに広がっていったもんさ。

ブライアン・スレイゲル:BIG4が最初からビッグだったと思われがちだけど、当時あのシーンからビッグになるバンドを挙げろと言われたら、俺たちはアーマード・セイントと言っただろうね。でも、考えていたようにはならなかった。

ラーズ・ウルリッヒ:当時の俺とジェイムズ(ヘットフィールド)は、間違いなくもっと型にはまっていたと言えるね。“モーターヘッド! アイアン・メイデン!”なんていう調子で、ヘヴィメタルのT シャツを着て長髪で、頭を振りまくっていたからさ。

ハラルド・オイモエン(フォトグラファー):もちろんデイヴ・ムステインは、メタリカを解雇されたことが相当こたえていたようで、アルコールとドラッグに溺れていたよ。俺は喜んで彼の好きなようにさせていた。メディアは気づいていなかったが、ラーズとムステインは定期的につるんでいてね。そこでデイヴは気持ちを打ち明け、ことあるごとにメタリカの悪口を言っていた。

エリック・ピーターソン(テスタメント):ポール・バーロフは、そのキャラクターでベイエリアのアイドルだった。彼は本物の狼を飼っていてね。狼とともにライヴハウスにやってきたくらい、どこにでも連れてきていたよ。足は熊みたいだったな。命令して人に吠えかからせることもできたんだ。

ゲイリー・ホルト(エクソダス):狼の名前は“By-Tor”だった。ポールはジム・ジョーンズみたいに人々を操ることができたんだ。“紫のクール・エイド(※子供用粉末ジュース)を飲め”と言えば、みんな飲んだだろう。そういう歪んだリーダーシップを持っていたよ。

ブライアン・スレイゲル:スレイヤーはおもしろいグループだったよ。みんなが特に仲良しというわけじゃなかった。集まると魔法のようだったけど、いつもたむろしているというわけではなかったな。

トム・アラヤ(スレイヤー):ヨーロッパのほうがシーンは大きかった。(1985年の終わりの)ベルギーの[ヘヴィ・サウンズ・フェスティヴァル]では、15,000人ものお客さんがいたよ。アメリカのクラブでは300 ~400人ほどの前でプレイしていたのに。

ジェム・ハワード([ミュージック・フォー・ネイションズ]):メタリカは、アメリカよりも先にヨーロッパでブレイクしたんだ。そして(マネジメント会社の)[Q-Prime]が引き継ぐと、ヨーロッパの人気者をアメリカでもブレイクさせたのさ。

 

 1985年12 月2 7日、大雪の積もったコペンハーゲンで、メタリカは3r dアルバム『メタル・マスター』の最終調整をしていた。彼らは4ヵ月間デンマークで過ごし、前作『ライド・ザ・ライトニング』をレコーディングしたスイート・サイレンス・スタジオと、メンバー全員で宿泊していたスカンジナビア・ホテルのスイート・ルームを行き来していた。マスター・テープはロサンゼルスへ送られ、モトリー・クルーやポイズンとの仕事で知られるマイケル・ワグナーによってミックスされることになっていた。この後の12ヵ月間で、彼ら、そしてその活動のすべてが変わることになるなんて、このときは本人でさえまだ知らなかった。

 

ジェイムズ・ヘットフィールド(メタリカ):曲自体は純真な頃のメタリカを思わせるね。バカバカしいということではなく、名声に汚されていないという意味で。スタジオで生活していた当時の正直さと純真さ……その炎は今も消えてはいないけど。メタリカのことしか考えていなかった。『メタル・マスター』のことしか考えていなかったと思うよ。

カーク・ハメット(メタリカ):一目置かれる作品になることはわかっていたよ。思いつく曲のすべてが最高なんだから。曲ができるたびに“オー・マイ・ゴッド”なんていう感じでね。

ラーズ・ウルリッヒ:アコースティック・ギターだ、売れ線だ、なんていうスラッシュ・コミュニティからのクソみたいな騒音に身がまえていたよ。けど、あの道を進むしかなかった。あれが真実だった……俺たちにとっての真実だったんだから。

ジェム・ハワード:BIG4となる4バンドのすべてが、[ミュージック・フォー・ネイションズ]に所属していた。イギリス向けにスレイヤーをライセンスしたし、アンスラックスの最初の2 枚、メタリカの最初の3 枚、そして最初のメガデスのアルバムも出した。間違いなくメタリカがそのなかで最強だったが。

チャーリー・ベナンテ(アンスラックス):『メタル・マスター』は、確実にあらゆるものを一段上へと押し上げたよ。

ブライアン・スレイゲル:信じられないようなレコードだった。正直言って、俺は『キル・エム・オール』があまり好きじゃなかったけど、『ライド・ザ・ライトニング』は凄まじくて、そして彼らはこのアルバムで、さらにもう一段ギアを上に入れたのさ。

エリック・ピーターソン:音質にさらに気が使われていて、よりクリーンになっていた。「ウェルカム・ホーム(サニタリウム)」は誰もが誇りに思っていた素晴らしい曲だよ。みんなの曲だったね。大きな希望だったんだ。“この音質を聴いてみろよ。レインボーのレコードみたいな音質にもできるんだぜ”なんていう感じで、そのくらいの名盤だった。とてもやる気が出たよ。

ゲイリー・ホルト:ファック、初めて「バッテリー」を聴いたときは“こりゃスゲえ”なんていう感じだったから。

ジェイムズ・ヘットフィールド:純真さと真実があったし、“全世界に対するファック・
ユー”というアティテュードがあった。メタリカがビッグになっているということに影響されることはあまりなかったな。エネルギーがあって、炎があって、まだ若々しくて、だけど俺たちはいまだに成長していたから、曲はどんどんと壮大になっていったのさ。

 

 

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