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【スペシャル・インタビュー】スコット・ケネディ×アリ・リチャードソン/ブリード·フロム·ウィズイン【『METAL HAMMER JAPAN Vol.11』より】

数多くの妨害を乗り越えたブリード·フロム·ウィズインは
もう誰にも止められない!

 ヘヴィメタルの新しい波に乗る準備ができているか? そのためにも、スコットランド発のブリード·フロム·ウィズインは絶対に知るべきだ。
 パンテラやラム·オブ·ゴッドの系統のもと、2000年代のヨーテボリ·スタイルも融合したサウンドが彼らの目印。2005年に結成されたこのバンドは、初期の貧困と経済問題や保守的な音楽ファンからの攻撃など、数多くの妨害を乗り越え、ついには大物バンドのサポートに抜擢され、今、怒涛の勢いで反撃を始めている。将来を嘱望された彼らは、シーンを変革させるという野心も持つ。そんなブリード·フロム·ウィズインが頂点まで登り詰める姿を見届けたい。

Interpretation by Tommy Mor

 

『アッシュズ・オブ・ザ・ウェイク』は俺の必聴盤だった。
>スコット・ケネディ

 計の針が2013年を指していた頃、ブリード・フロム・ウィズインは世界に足を踏み出そうとしていた。彼らはセンチュリー・メディアと契約し、アルバム『Uprising』は称賛とともに受け入れられていった。<9/10>という高い評価をつけたUK『METAL HAMMER』誌のレビュアー、ニック・ヤングは、“獰猛でドライブしていて、ヘッド・バンギングせざるを得ない”と表現している。
 当時の彼らの最大のトピックはメガデスのサポート・アクトとしてツアーに出ることで、スラッシュのレジェンド・バンドから経験を得ようとしていた。そのなかでも重要な教訓は“ロック・スターのボディガードにケンカを売らないこと。特に卓球の玉のように自分を壁に投げつけてくれそうな相手のときは要注意”だった。“デイヴ・ムステインから楽屋に来るように言われて……”と太陽のように明るい笑顔で話を始めるのは、ヴォーカリストのスコット・ケネディだ。“アリ(リチャードソン/d)がバックファスト(※カフェイン添加した高アルコール度数のワイン)のボトルを持ってやってきて、ムステインの顔に引っかけそうになったんだ! 「あぁ? これを呑んだことはあるか?」って感じでさ”
 当のアリは“その話は百万回も聞いたよ”と、もはや恥ずかしさは微塵もなくウンザリした様子で椅子に深く沈みこんでいた。スコットはそんなアリに悪びれることなく高らかに笑い、“経験してこなかったことなんて何もない”とさえ言われてきたデイヴ・ムステインから“じゃあ、お前はこれを試したことはあるのか?”と上モノ(のドラッグ)を差し出されたことを打ち明けてくれた。なお、デイヴ・ムステインはメガデスのデビュー・アルバムの制作時、ハンバーガーとヘロインを日常的に摂取し続けていたと今までに何度も言われてきている。
 この逸話は、当時バンドが体験していた熱狂と青臭さを大いに物語っている。そしてその18ヵ月後、契約はうまく進まずにバンドには2万ポンド近い借金が残った。20代そこそこのバンド・メンバーにとって、日雇い仕事から離れて数週間に及ぶツアーに出ていくことは、当時は死刑宣告のようなものだったに違いない。しかし、彼らは幸運にも音楽による希望を感じていた。“音楽から離れるなんてことはできなかった。特にあの時点で、すでに目的は達成していたらね”とアリは話す。
 ブリード・フロム・ウィズインが生まれたのは2005年。まだメンバーがティーンエイジャーの頃から、ジャム・プロジェクトとして始まった。グラスゴーの南東15マイルの街、地元ハミルトンのコミュニティの中心を基盤に、メンバーはラム・オブ・ゴッドやパンテラといったバンドのカバーをしていた。
 “『アッシュズ・オブ・ザ・ウェイク』は俺の必聴盤だった”とスコットが興奮気味に話す一方で、アリは“「ファッキング・ホスタイル」の冒頭の4カウントを聴いたとき、俺はクラリネットをゴミ箱に突っ込んでドラム・スティックを手にしたのさ”と話す。

 

俺らが選んだキャリアパスは、
本質的にはバンドを継続させるためのものだったんだ。

>アリ・リチャードソン

 に彼らは自分たちの曲を書き、各自が影響を受けたスタイルもミックスするようになった。そしてヨーテボリ(※スウェーデンの都市、多くのメロデス・バンドを輩出している)らしさや、ザ・ブラック・ダリア・マーダーっぽさが散見されるようになっていった。
 彼らは招かれればどんな場所ででもプレイし、地元でライヴをやり尽くしてしまったのちは、ロードに出るようになっていった。“俺らはやっと始まったという感じで、15席程度のミニ・バスは機材で埋め尽くされていたから、その隙間で寝ていたよな!とアリがスコットに話しかける。お前はステージに登る前にビールを8本くらい呑み干したりもしていて、もし当時の映像が見返せたら恥ずかしいことがたくさん映っている気がするよ(笑)”
 そんな彼らの努力は報われ、2009年にはデビュー・アルバム『Humanity』がリリースされた。ただし当時の彼らはまだ無一文のままで、レストランやバー、洗車のアルバイトをしながら収入を得ていた。次第にそれでは生活が立ち行かなくなると気づき、“ツアーに出るたびに、俺らは次の仕事にありつけるのかわからなかった”とスコットは回想する。
 こういった状況を打開し、ある程度の経済的な安定を得るために、メンバーはバンド活動とは別のキャリアを歩むことにもした。3人のメンバーがグラフィック動画に特化した制作会社を所有していることについて、アリは“俺らが選んだキャリアパスは、本質的にはバンドを継続させるためのものだったんだ”と説明する。
 セックス、パーティ、スイミング・プール一杯のアイアン・ブルー(スコットランドの人気炭酸飲料)といった、彼らが思い描いたかもしれないロックンロールのファンタジーからは遠い現実となったが、今でも彼らは夢を追い続けている。そして次にバンドの前に立ちはだかったのは、保守的な音楽ファンたちだった。

 

◎続きは『METAL HAMMER JAPAN Vol.11』  でどうぞ

 

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