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《名盤回想『ロード』&『リロード』》メタリカ【『METAL HAMMER JAPAN Vol.12』より】

メタリカの最も論争を呼び起こした『ロード』&『リロード』
について再評価の機運が巡ってきている。

 短髪、アイライナー、ブルージィなリフ……『ロード』(1996)と『リロード』(1997)の発売によって、メタル界最大のバンドにとっての90年代中頃は、揺らぎを見せた転換期となった。しかし『リロード』のリリースから25年、メタリカの最も論争を呼び起こしたこの時期について再評価の機運が巡ってきている。今回は、名盤『メタリカ』からともに作業をしてきたボブ・ロックからの証言と当時のメンバー・インタビューとともに、あの時代に戻って確認してみたい。

Interpretation by Tommy Morly

 

アイツらは単に自分たちがシックリくるものをやっているだけで、
ほかの人がどう考えるかなんて気にしちゃいないさ。
>ボブ・ロック

 1996年10月12日、ロンドンのアールズ・コートにて、メタリカが興奮する2万人のファンを前に「エンター・サンドマン」をプレイしている最中、その巨大な舞台セットはスペクタクルに崩壊しようとしていた。高所に配置していた照明スタッフは感電し、ロープの先端にあった台から転落してしまう。もうひとりのスタッフは全身に火が燃え移り、燃えながらステージ上を走り回っていた。
 そしてバンドを囲むステージ全体は崩壊し始め、メンバーは素早く安全確保のために退散。数分後にバンドは破片が散乱したステージに戻り、裸電球の下で互いに体を寄せ合うように集まり、小さなアンプを使いながら「アム・アイ・イーヴル?」をプレイし始める。観る者すべてが呆気にとられていた。
 ステージ上では一体何が起こったのか? 解釈するまでに数分の時間を要した。これらはすべてスタントによるもので、125の日程に及んだ《プア・ツアーリング・ミー・ツアー》での連日ライヴを締めくくるための演出だった。まだインターネットが普及していなかった時代なだけに、この大掛かりな悪ふざけは大きく知れ渡っていなかったのだ。
 オーディエンス全員を沸かせた演出としては、実にマスター級と言えるだろう。
 しかし皮肉なことに、その年に発表した『ロード』並びに18ヵ月後にリリースされた『リロード』にて、メタリカが話題になったのは“そのスタント演出だけだった”という声も上がった。
 これら2枚のアルバムは、彼らがそれまでにやっていたスラッシュ・メタル・サウンドから大きく舵を切り、世界中を席巻した『メタリカ』よりもさらにメインストリームへと歩み寄った作品であった。この変化は当時の彼らの巨大なファンベースには不可解なものとして映り、怒りを買うことにさえつながり、彼らの短髪でアイライナーを塗った新たなイメージは、それをさらに助長していった。―『リロード』リリースから25年、今でもメタリカのキャリアにおいて、最も論争を巻き起こした時期として記憶されている。

 

 “あのバンドの最もかわいげのあるところは、<人々の反応をうかがいながら動いているわけじゃない>ってことだね”と話すのは、『メタリカ』、『セイント・アンガー』、そして『ロード』と『リロード』で作業をともにしたボブ・ロックだ。“アイツらは単に自分たちがシックリくるものをやっているだけで、ほかの人がどう考えるかなんて気にしちゃいないさ。ヤツらが方向性を定め、自分たちのやることが見えたら、それを単にやるだけだから。そしてそれを撤回することなんてないね”
 80年代と90年代にメタリカが抱いていた野望は、バンドが成功を重ねていくうちに果たされていった。彼らは自分たちが生まれ出たスラッシュ・メタルのシーンを凄まじい速度で走り抜け、カルトでアンダーグラウンドなバンドからメインストリームなメタルのビッグ・アクトへと変貌を遂げたのである。『メタリカ』は1000万枚を超えるセールスを記録し、ガンズ・アンド・ローゼズやU2に並ぶ音楽界のトップ・グループへと自身を導いた。
 “アイツらは世界最大のバンドになるために尋常ではない努力を重ね、『メタリカ』でそれは実現した。そしてそれを達成した次のステージは、もう別の話だったんだ。俺が思うに彼らはもっと違うものに手を伸ばしたくなったんだと思うね”とボブは振り返える。
 メタリカがそれまでの10年間でステップを踏み損ねたことはなく、『メタリカ』を引っ提げたツアーが終わる頃、彼らは無敵の存在になっていた。しかしそんな彼らでさえも、周囲の音楽界で起きていた潮目の変化には気づいていた。グランジの到来を前にして、地位を確立した多数のメタル・バンドたちがアイデンティティを失っていく。グランジという音楽ジャンルそのものは後発で見劣りし、どことなく恥ずかしいものであるという認識が一部の者たちに持たれていたにも関わらずだ。
 このことについて、当時バンドのブレインとしても機能していたボブは次のように述べた。“アイツらは単にカルチャーが変化していく様を目にしていたんじゃないかな。そしてメタルも限定的なものになり始めていた。「ドラムやギターのサウンドはこうでなくちゃならない、ハモってはいけない」みたいな観念ができあがり、もはや楽しめるものではなくなろうとしていたんだ”。 
 ボブ・ロックの推論について異論はないが、『ロード』の準備期間にはフロントマンのジェイムズ・ヘットフィールドとベーシストのジェイソン・ニューステッドというトラディショナル派、ギタリストのカーク・ハメットとドラマーのラーズ・ウルリッヒという冒険的で実験性を求めたふたりとの間で分断が起きていたようである。
 カークはバンド内でのニックネーム“クワーク(Kwirk)”を名乗り、サンフランシスコのアーティスト仲間とツルんでいた。“アイツらはみんな突拍子もなくつかみどころのないヤツらばかりで、メンバーとだと躊躇してしまうような実験的なことを、俺はアイツらと一緒にやりたいと強く思っていたんだ”と、カークは本誌に語っていた。
 カークと近い感覚を持っていたラーズは、当時地球上で最も話題に上がっていたバンドであるオアシスへの愛を一切隠さずにいた。“俺はアイツらの傲慢さ、自信、<カント>だとか<ファック>といったすべての言動が気に入っていたよ”と、あるインタビューで答えている。なお、ラーズはそのあまりの大ファンっぷりから、マンチェスターが生んだこのバンドの一時的な照明エンジニアとしてニュージャージーでのライヴに参加もしている。
 『ロード』および『リロード』に収録されることになった楽曲にノエル・ギャラガーからの影響が入り込むことはなかったが、ブルース・ロック、サザン・ロック、カントリー、バイカーたちが集うバーでのブギーと、以前にはなかった幅広い音楽からの影響が取り入れられていく。
 ボブ・ロックによると、バンドは予めアイディアを練った状態でスタジオに入ってきたわけではなかったとのことだが、それまでの彼らの作品とは異なるものにさせるという強い意志が感じられたそうだ。
 “アイツらは、どこか別の場所に行くための明確なコンセプトを持っていたわけじゃない”とボブは話す。1995年の下半期のセッション中に起きた最も顕著な変化は、4人が初めてひとつの部屋に集まったときだったという。“あのとき、バンドのイメージとしてガチガチに作りあげられてきたものから自由になれたんだ。自分たちが収まっていた枠を広げられるってことに気づき、そして作られた『ロード』と『リロード』は、まさにそのためのものだったんだ”

 

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