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The Documentary/ジューダス・プリースト 【メタルハマー・ジャパンVol.3より】

『BRITISH STEEL』40th Anniversary
MEN OF STEEL

―JUDAS PRIEST

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1980年が幕を開けたとき、ジューダス・プリーストは世界へと羽ばたく準備を終えていた。あとは“このアルバム”による最後のひと押しが必要なだけだ。それから40年、これが『ブリティッシュ・スティール』にまつわるストーリー。

Text by Malcolm Dome Interpretation by Tommy Morly Original by『METAL HAMMER』334

 

 “盗まれたテープ”、“粉々になった牛乳瓶”、“飛び交う食器”、“パトカー”……これらはすべて『ブリティッシュ・スティール』がいかにしてイギリスを代表し時代を超越する作品の1 枚になったのかを語る際に登場するものだ。
 本作リリースの40周年を祝ううえで、その後のメタルのスタイルやトーンを決定づけた至上のアルバムとなったことを再考せずにはいられない。『ブリティッシュ・スティール』は全世界にインパクトを与え、それは現在でもなお続いている。
 ジューダス・プリーストが『ブリティッシュ・スティール』を録音した1980年、彼らはすでに5 枚のスタジオ・アルバムと1 枚のライヴ・アルバムをリリースし、その勢いは順調に増していた。当時の前作『殺人機械』は1978年にリリースされ、UK チャート32位を記録し、アメリカでも(『Hell Bent For Leather』と改題して)自身最高のチャート・アクションを記録し128 位を記録した。
 翌年にはライヴ・アルバム『イン・ジ・イースト』(1979年)が商業的に躍進し、イギリスで10位、そしてアメリカで70 位となった。当時のジューダス・プリーストは大ブレイクを迎えるための準備万端であり、本記事はその瞬間を体験した当人たちの目から見たストーリーである。

 

6 割くらいが作曲済みで、すぐに録音できるような状態だったはずだ。
―グレン・ティプトン

 プロデューサーを務めたトム・アロムとバンド(ロブ・ハルフォード/ vo、グレン・ティプトン/g、K.K. ダウニング/ g、イアン・ヒル/ b、レス・ビンクスと替わる形で新たに加入したデイヴ・ホランド/ d)は、スターリング・スタジオに集められた。バークシャー州のアスコットにあった、ティッテンハースト・パークという72エーカーにも及ぶ私有地にあり、かつてはジョン・レノンによって所有されていたが、現在ではリンゴ・スターが所有している。
 本アルバムがその後どれだけ重要な1 枚になったのかを踏まえると、プリーストが集結した際には、まだ作曲を終えていなかったことに驚かざるを得ない。

グレン・ティプトン:どうしてそのやり方にしようと決めたのか思い出せないね。そんなことはしたこともなかったし、そういったやり方にトライしたことすらなかった。6 割くらいが作曲済みで、すぐに録音できるような状態だったはずだ。「ザ・レイジ」はスタジオで作曲し……「リヴィング・アフター・ミッドナイト」もそうだったと思う。

K.K. ダウニング:僕たちは締め切りまでには仕上げられるだろうと常に自信を持っていて、こういった自然発生的な部分もあったほうがうまくいくとわかっていたんだ。

トム・アロム:彼らはたくさんのアイディアとリフを用意していたけど、曲としてできあがったものは数えるほどしかなかったと記憶している。バンドは休むことなくツアーをくり返していて、充分に作曲をする時間が取れていなかったんだ。プリプロダクションをする時間をしっかりと取ることもできなかったんだ。僕はデフ・レパードの1st アルバム『オン・スルー・ザ・ナイト』を同じスタジオでプロデュースし終えたばかりで、プリーストとの仕事というのは、ほぼ同じ現場が続いたような感覚だったんだ。

K.K.:当時リンゴはあの場にいなかったね。貴重品はすべて僕らが触れない場所に隔離していて、バンドに守るべきルールを課していた。例えば敷地内でバイクに乗ってはいけない……もちろん僕らは乗っていた。池での魚釣りも禁止だったけど……それももちろんやっていたね! バーミンガムのヘヴィメタル・バンドに一体何を期待するんだ? 彼は張りぼての恐竜を地下に所有していて、それは本当に巨大だった。パブから酔っぱらって帰ってくると、かなり驚かされたものだったよ!

 

僕のギター・パートの録音には図書室を使ったんだ。ベストなサウンドを得るためにどんな部屋でも使ったよ。
―K.K.ダウニング

 作業は1980年の2 月1日から始まり、2 月中に終えることができた。『イン・ジ・イースト』にトム・アロムが参加していたとはいえ、本アルバムは彼が初めて本格的にプリーストと組んだアルバムだった。その後80年代を通じ、彼はバンドと5 枚のスタジオ・アルバムと1 枚のライヴ・アルバムを制作することになる(そして2018 年発表の『ファイアーパワー』でも再び組むことになった)。バンドはスタジオだけでなく、屋内のさまざまな部屋で録音を行ない、各楽器のベストなサウンドを得るために実験を重ねていた。

K.K.:トムはグレイトだったよ。彼は素晴らしいミュージシャンでもあった。僕らの誰よりも優れたピアニストだった。それにたくさんのアイディアを持って来てくれて、チームの素晴らしい一員として活躍してくれたね。

トム:みんな、あのアルバムには生々しいサウンドを求めていた。そのため各楽器に適したアンビエント感を得るため、すべての部屋を使うのは当然のことさ。デイヴのバカでかいドラム・サウンドを得るために廊下を使ったのをよく覚えているし、それはのちにデフ・レパードでもやるようになった。ただ当時のデフ・レパードはまだ若くて経験も不充分だったので、もっときちんとコントロールしてあげる必要があったけどね。その一方でプリーストはキャリアを重ねていてスタジオの使い方にも慣れていたので、さらに一歩踏み出させることが重要だった。それにティッテンハースト・パークは『イン・ジ・イースト』をミックスした場所でもあったので、レイアウトも熟知していたんだ。

K.K.:ジョン・レノンが「ウーマン」のビデオを撮影した、ティッテンハースト・パーク内の有名な部屋を知っているかい? あの部屋からテレビとビリヤード台を外に出してリハーサル用の部屋として使ったし、僕のギター・パートの録音には図書室を使ったんだ。ベストなサウンドを得るためにどんな部屋でも使ったよ。

 

 バンドはこのアルバムのサウンドを作るために多大な想像力を働かせ、食器、牛乳瓶、ビリヤードのキューといったものまでをも活用した。効果音を作るためにヤカンさえも使い、そこからは想像もつかないメタルなサウンドを求めた。
 80年代はまだモダンなテクノロジーと呼べるものが満足に得られていたわけではなく、どのバンドもクリエイティブでいなければならなかったのである。『ドクター・フー』(※当時イギリスで放送されていた人気S F 番組)の劇中に出てくる次元移動装置“ターディス”など、まだ目にした者などいなかったのである。

トム:当時はサンプリングなんてものは一切なかったよ。だから当時のバンドは、今よりも何かを発明する思考が必要だった。今の若いミュージシャンたちは何でも指先の操作で手に入れられてしまうから、むしろかわいそうにすら思えてしまうよ。そういったものはクリエイティブさを奪ってしまうことにつながりうるから。

グレン:「メタル・ゴッズ」で私たちは棚一杯に食器を詰め込み、それを揺らしながらナイフやスプーンを除いていきながらジャストなサウンドにしていったんだ。試行錯誤の繰り返しだったけど、最終的にはやった甲斐があったよ。「ブレイキング・ザ・ロウ」は牛乳瓶のサウンドをフィーチャーしていて、私たちはたくさんの牛乳瓶を地面に叩きつけて割り、それを録音したんだ。私が求めた衝撃音は、それで見事に得られたものさ。この曲のサイレンの音はかなりリアルなものだったよ。だって、目の前を過ぎ去るパトカーの音を録音したんだから。恐らくこれが私の記憶にある当時やっていたことだね!

 

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