システム・オブ・ア・ダウンのカリスマ・フロントマンのドキュメント戦争。
アメリカでの生活、音楽ビジネス、そして政治活動における真実。
彼らが1998年にリリースしたデビュー作以降、ヘヴィ・サウンドのトレンドは大きく変わったと言える。2005年の『ヒプノタイズ』を最後に本格的な新作は発表されていないが、今もって世界のヘヴィ・ミュージック界で強烈な存在感を放つシステム・オブ・ア・ダウン......その 中心的存在であるフロントマン、サージ・タンキアンについて、あなたはどれくらい知って いるだろうか? レバノンで生まれ、戦争を経験しアメリカへ移住、数々の仕事を経てバ ンドを始動させ、政治的活動にも力を注ぐ。昨年公開のドキュメンタリー映画『Truth To Power』にも収められた、目を見張るような人生のストーリーを語ってくれた。
Translation by Tommy Morly
サージ・タンキアンが、自身が”突然のひらめき”と呼ぶものを得たのは、雨が降りしきる深夜だった。当時サージは20代中盤で、大学を卒業後に叔父が営む宝石ビジネスに携わりながら 音楽をプレイしていた。しかし彼は人生を楽しんではおらず、法律家を目指して勉強することを決めていた。
ロサンゼルスのダウンタウンからロング・ビーチの夜間学校まで長距離ドライブをしていたとき、潜在的な意識が湧いてきた。ブレーキを強く踏み込み車を路肩に停め、ダッシュボードを叩きつけながら“俺は音楽がヤリてぇんだ、こんなことヤッてられるか!”と怒鳴った。
“法律家になるっていうのは、とてもネガティブなことだった”と現在のサージは話す。“俺は法律家ってヤツを嫌ってきた。でも自分という人間を奮い立たせて自己をしっかりと実現させるためには、「本来自分がなるべきじゃない極端なことにチャレンジしなければならない」と常々言っていたんだ”。
車中での自我の崩壊は転換点だった。 彼は数ヵ月後には若いアルメニア系アメリカ人のメタル・バンド、ソイル(SOIL)に加入し、次第にこのバンドはシステム・ オブ・ア・ダウンへと変異していく。それから四半世紀以上が経過し53歳となった現在、彼はモダン・メタルにおける最大のカリスマとなり、シンガー/アーティスト/活動家としてマルチに活躍している。彼のキャリアは政治的な論争や、システム・オブ・ア・ダウンのメンバーとの間で沸き起こるドラマで溢れていた。
“これは俺が音楽の世界での活動家として学んできたことなんだけど......”と自分の人生を振り返りながら続ける。“大衆の意見が自分の味方をしているときに正直に振舞うのは容易なことだよ。でもそうじゃないときっていうのは逆に難しくなるよね......”。
―あなたは1967年、レバノンはベイルートで生まれました。最も古い記憶について教えてください。
一番古い思い出は祖父母の家でのことで、それは俺が住んでいた家の前の通りを進んだところにあってね。どの家庭でもそうであるように、彼らは俺の面倒をよくみてくれていたんだ。階段を昇れば通りや海岸に出られて、初めてビーチに行ったのもその頃だったね。
―1975年 、レバノンでは内戦が起こり、落とされる爆弾の音を聴いていたと話していました。幼いながら、どのような気持ちで過ごしていたんでしょう?
当時、心のなかで処理することはとても難しかったよ。理解できるようになったのは大人になってからだから。今の俺には6歳の息子がいて、彼はオモチャの小さな飛行機や戦闘機で遊んでいる。彼は“どうしてジェット・ファイター(※戦闘機)と呼ばれているの? ほかの飛行機と何が違うの?”と聞いてくるんだ。 俺が“戦争で使われるからだよ”と答えると、次は“戦争って何?”と聞き返してくる。これには本当にまいったね。6歳の子供にどうやって戦争を説明すりゃいいんだ? 戦争はあまりにも非理論的なものだよ。
―あなたの家族はその直後にベイルートを離れ、アメリカにやってきました。 アメリカでの最初の記憶とは?
ハハハッ! アメリカ製のチーズがあまりにも黄色かったことかな。それとベルボトムのジーンズ......だって1975年のことだから。レバノンのベイルートからカリフォルニアのハリウッドに来るっていうのは、そりゃカルチャー・ショックがあったさ。使っている言葉だって完全に異なるもので、俺は英語が少ししか話せなかったこともあって、周囲に追いつくまでに1〜2 年ほどかかったよ。
―これまでで最も最低だった仕事とは?
俺はたくさんの仕事をしてきたよ。親父と一緒に靴を製作し販売するビジネスをやったことがあれば、叔父と宝石ビジネスをやったこともあり、ソフトウェアの会社を所有したこともある。靴の販売が最高だったとは言えないけど、10代のときにキレイなおネエちゃんがたくさんいる小さなモールで働けてたのはマアマアかな。
ただし、もし俺が過去に戻れるとしても、何ら変えることはないだろうね。すべての経験が今の俺を作ってくれている。どうしたら後悔できるんだ? ってことだよ。
―あなたはフォーエヴァー・ヤング(FOREVER YOUNG)というバンドのキーボード・プレイヤーとしてキャリアをスタートしましたが、その驚くほどクレイジーなシンガーとしての才能にはいつ気づいたんですか?
システム・オブ・ア・ダウンのはるか前、ソイルの頃に気づいたんだと思う。かなりクレイジーでヘヴィ、そしてプログレッシブな音楽で、表現という意味で自分のなかの何かを解き放ってくれた。
ただ俺は、全然グレイトなシンガーじゃなかったのさ。俺は自分を表現していただけで、半分くらいはスクリームし、残り半分で歌っていたような感じだった。 何を伝えようとしていたのか自分でも理解していなかったけど、いつの間にかそれも芽生えてきたんだよね。
―システム・オブ・ア・ダウンを軌道に乗せるまでの道のりとは?
なかなかにハードワークだったよ。多くのレーベルが俺らとサインすることに及び腰で、“いったい誰がこんな音楽をラジオでかけてくれるんだ?”って感じ。でも俺らは、そもそもラジオのことなんて考えたこともなかったよ。単に自分たちから生まれる音楽を作っていただけで、 それこそアーティストがすることだから。 最初の一年はエンドレスにツアーをしていて家にいた記憶なんてないけど、俺はツアーに出ているほうがはるかに楽しかったな。自分の思い描くヴィジョンに向けた仕事が適切な場所、タイミングで行なわれているのなら楽しめるものさ。 だってそういうとき、世界は自分たちについてきてくれるものだろ?
◎続きは【メタルハマー・ジャパン Vol.6】 でどうぞ