筋肉少女帯は“ ヘヴィメタル・バンドなのか!? ”と問うならば!
「サンフランシスコ」、「詩人オウムの世界」、「イワンのばか」、「スラッシュ禅問答」、そして新作『君だけが憶えている映画』における「大江戸鉄炮100人隊隠密戦記」……と、数々の様式美ヘッドバンギング・チューンを持つ筋肉少女帯は、ものを思うに、ヘヴィメタル・バンドと言ってもいいのではないか!? 彼らをジャンル分けするなんて非常に不毛な話でもあるが、今回はハマー的“筋少はメタルなのか!?”という問いに、オーケンと橘高が鋼鉄魂全開で答えるっ!
高校生バンド時代の選曲が今の筋少を表わしていたな、と。
>大槻ケンヂ
―突然ですが、今回は“筋肉少女帯はメタル・バンドだ!”という意気込みで話を聞いていきたいと思っております!
大槻ケンヂ そもそも筋肉少女帯は40年前に高校生バンドとして組まれたんですね。 最初のライヴは新宿の[JAM]で、そのときにPANTA&HALと頭脳警察、ヒカシュー、そしてレインボーのカバーをやったんです。これが非常に高校生らしいセレクションだと思うんですけど、今になってみると筋肉少女帯も頭脳警察のような日本語パンク的な歌詞と、当時のヒカシューの持つニュー・ウェイヴな感じ、そしてレインボーのようなハードロック・スタイルというものが合体したバンドだと思うんですよ。だから非常にそのときの選曲が、今の筋少を表わしていたな、としきりに思います。
―初志貫徹というか、そのときの気持のまま今も突っ走っているという感じですか。
大槻 やっぱり世代として、ヘヴィメタルが流行っていた時期だったということもあったんです。それで筋肉少女帯の2ndアルバム(『SYSTER STRAWBERRY』1988年)でメンバーが辞めて、誰かヘルプでギターを入れなくてはというときに、筋少のヘヴィメタルの方向性ができかかった気がします。だからその次にギタリストを選出するときにも、やはりハードロック色のある人を、と思ったんじゃないですか。
―そして、『猫のテブクロ』(1989年)のタイミングで橘高さんが加入するという。
大槻 そうですね。
―それ以前の初期曲……例えば『仏陀L』(1988年)での「釈迦」はすでにサウンド的にもかなりスピード・メタル的であったり、「サンフランシスコ」ならば様式美的メタル・ナンバーとも言えます。どういった認識で作曲し演奏していたのでしょうか?
大槻 その頃は、今後どういうジャンルをやっていこうかがわからなくて。暗中模索で少年時代のいろんな引き出しから作っていったところ、結果的にああいうサウンドになったという記憶があります。僕らよくケラ(有頂天)さんのナゴム(レコード)でやっていたんですけど、ケラさんはメタルが嫌いで。それでメタルっぽいのはどうかなっていうのもあったんだけども、ナゴムでありながらメタル好きっていうのもけっこういて、それを中和していたのが筋肉少女帯だった気がするなぁ。
―ナゴムのライヴにあって、お客さんの反応というと?
大槻 ラウドなナンバーっていうのはやっぱり盛り上がりますよね。シンプルに盛り上がったんじゃないかな。
―それで“この音楽性はありだな”という感触を得たりも?
大槻 ただその頃は、僕はパンクの方向のつもりでやっていたかもしれない。パンクとヘヴィメタルって敵対関係にあって、ものすごく仲が悪かったんですけど、ちょうどGASTUNKが現われた頃からボーダレスになってくるんですよね。だから筋少もパンク、ニュー・ウェイヴっぽく、ヘヴィメタルがボーダレスになる境目に生まれたバンドだったような気がします。
ものすごい正統派なヘヴィメタル・サウンドに対抗しうるには、邪道なナゴムの詞しかない。それをぶつけ合うことで、化学変化や異化効果が生まれる。
>大槻ケンヂ
大槻ケンヂのヴォーカルは、俺からしたらオジー・オズボーンみたいなもの。
だから俺が筋少に入ったら、おもしろいものができるんじゃないかと。
>橘高文彦
「釈迦は」パープル、「サンフランシスコ」はELPを楽しむみたいな
>橘高文彦
―その後、『猫のテブクロ』で橘高さんが加入します。橘高さん本人としては、バンドがハードな要素を欲しているなという感覚はありましたか?
橘高文彦 俺の場合は経緯がおもしろくて。高校生時代のアマチュア・コンテストがありまして、俺が高三のとき、そのコンテストに筋少が出てきて。俺らは決勝にいったり個人でもベスト・ギタリスト賞や優秀賞をもらうタイプで、筋少は予選落ちするんだけどベスト・パフォーマンス賞を取るタイプだったんですよ。結果、ベスト・ギタリスト賞を取る高校生とベスト・パフォーマンス賞を取る高校生が今の筋少になっているというのがひとつの側面でわかりやす いところなんだけど。
―まさに(笑)。
橘高 ジャパニーズ・ヘヴィメタル・ブームの勢いもあって俺らは1984年にデビューしたわけだけど、その後に彼らもデビューして“え、そういうタイプだったんだ”って驚いたくらい。でもギタリストがいないということで、当時大槻君から連絡があったのかな。俺はAROUGEが解散して音楽スタジオでバイトをしていたんだけど、たまたま休みの日に連絡があって“これから2ndアルバムを作るんだけど、正式なギタリストがいない”と。そのときには横関(敦)さんに弾いてもらうことになっていると聞いて、“彼が弾くようなバンドになったんだ”って最初は驚きました。俺からしたらテクノの要素が強い感じだったので。
―そうかもしれませんね。
橘高 しばらくしてオーディションという形を取りたいということで、『仏陀L』と2ndのラフ・ミックスを数曲もらって。横関さんが弾いている曲は“こういう曲にはこういうギターを入れるよな”ってすぐにわかったんだけど、それよりも「サンフランシスコ」においてはプログレッシブな要素があるヘヴィメタルで、そのなかで特異な大槻ケンヂというヴォーカル。俺からしてみたらオジー・オズボーンみたいなもんだったの。最初にオジーを聴いたときみたいな“え、このヴォーカルなんなんだ”っていう。だから俺がもし筋少に入ってもっとハードな部分を強調したら、おもしろいものができるんじゃないかな、と。
―大槻さんとしては、『猫のテブクロ』にて橘高さんの個性をどれくらい出したいと思っていましたか?
大槻 おいちゃん(本城聡章)はわりとカッティングの人で、その前にいた三柴江戸蔵が超絶技巧のピアニストだったので同じようなキーボーディストを入れるのは不可能だし、じゃあソロイストを入れたツイン・ギターという体制に変えてみたらおもしろいんじゃない?って。若かったんでパッと切り替えて橘高君が来てくれて、芝浦で初お披露目ライヴをやったんですよ。僕もそのときに橘高君の初ステージを観たんですね。そうしたら始める前に袖がヒラヒラし た服に着替えだしたんですよ! そのヒラヒラ加減が自分のナゴムとかアナログ・パンクの世界とは違うもので、“ノヴェラかよ!”と思って(笑)。いざ始まったら、いわゆるヘヴィメタル・ギター・ヒーローのスタイルだったわけですね。
―それまでは、AROUGEでのステージを観たことがなかったんですか?
大槻 今じゃ信じられないんですけど、当時はお互いのスタイルを知らないままバンドを組むっていうのはあったんです。橘高君の評判は聞いていたんですけど、考えてみたらそんなにちゃんと観たことがなかった。そこで初めて彼のスタイルを観て“わ、スゴい人が入ってきた”と。メキメキ弾いていたので“あ、これは筋肉少女帯がヘヴィメタルにシフトしていくのかな”とステージ上で思った二十歳前半の芝浦の夜でした(笑)。
―まるでお見合いのようなステージですね(笑)。
大槻 そもそも、僕はあんまりヘヴィメタルは通ってないんですよ。内田(雄一郎)君のほうが好きで、彼はわりとすぐに理解したんじゃないかな。彼は常にディープ・パープルとして解釈している感じがあったので。
橘高 『仏陀L』の「釈迦」なんかも、彼はパープルごっこみたいな遊び方をしていたと思うのね。「ハイウェイ・スター」とかのグルーヴを筋少に取り入れて、彼なりに楽しんでいたっていう。
―おぉ、“「釈迦」=パープル説”!
橘高 あと俺、クイーンがすごく好きな子供だったんだけど、筋少に対して少しクイーン的なものを感じていて。例えばディキシーランド・ジャズだったり弦楽四重を取り入れようと思ったら、その人たちを呼んでやったりするでしょ? でもクイーンってそれを自分たちだけで取り入れる。危険な言い方をすれば“似非でいーじゃん”って、それがクイーンのすごくいいところだなと思っていて。筋少も今に至るまでいろいろなものにインスパイアを受けて、いろいろなジャンルのものを取り入れているんだけど、基本的にはそれをそのジャンルの人と同じように再現しようとは思っていなくて、 自分たちでそれを楽しむっていう。
―おぉ、“筋少=クイーン説”!
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